範囲が広いので、効率的なコースを企画するように。移動の時間や、見学先の事情も十分考慮すること。佐野市郷土博物館や田中正造生家は、休館日を確認されたい。正月の佐野市内は惣宗寺での厄除祈願のため交通混雑が予想されるので要注意。  

◎寿徳寺の顕徳碑 鉱毒被害地・久野村の活動家たちは、田中正造の本葬後、密かに分骨を開山の墓に埋め、以後、寺だけで供養を続けてきた。この事が明らかにされたのが1989年。地区民を中心に顕徳会が組織され、1993年には境内に顕徳碑が建った。


◎祈念鉱毒根絶碑 1958年5月、源五郎沢堆積場決壊による東毛一帯の被害に対し、農民は東毛三市三郡鉱毒根絶同盟会を結成し、足尾へも古河本社へも押しかけた。こうして1974年、古河は加害の事実を認め、調停は成立した。碑は「土」の字を形どり、毛里田地区の中央に建っている。


◎川俣事件現場 1900年2月13日払暁、第4回押出しのため雲竜寺を出発した2500人の鉱毒被害民が、利根川河畔の川俣にさしかかったとき、これを阻止するために待ち構えていた憲兵(10人)と警官隊(180人)が襲いかかり、流血の惨事となった。そして、現場逮捕15人、その後多数が捕えられ、68人が投獄、51人が起訴されていく。これが川俣事件の発端である。

◎田中正造生家 1993年11月21日、50人を超える人々の抗議行動の中で生家の「竣工式」が行われ、25日から有料の一般公開が始まった。母屋の屋根は銅板葺きに、庭には砂利を、そして敷地は変形移動された。栃木県は自ら指定した史跡を、自らの手で破壊したのである。田中正造大学の学習の場であることは否定され、正造が願った「生家の活用」とは違う閉鎖的な運営となってしまった。

◎佐野市郷土博物館 1983年にオープンされ、正造の豊富な資料がある。特別展示室には、中央の被害地図模型上には白銅製の正造が立ち、直訴状や遺品などが展示されている。資料については、申し出れば便宜を図ってくれる。なお、館の入口にはチョンマゲ姿の正造が立っているが、事実と異なるので、早急に直すべきである。


◎渡良瀬川にサケを放す会 渡良瀬川の浄化を目指した実践活動として、1982年にサケの稚魚の放流が開始された。例年12月に配布されたサケの卵を持ち帰り、各家庭で孵化した稚魚を育て、2月第3日曜に雲竜寺前の渡良瀬川で一斉放流するのである。数年前から遡上したサケを見ることができるようになった。


◎雲竜寺救現堂 正造が逝くと、9月6日に雲竜寺で仮葬をすませ、10月12日に惣宗寺で本葬が盛大に行われ、この寺にも分骨が納められた。救現堂は、7回忌に台宿町の琴平神社社殿を移築したもので、正造が病床で「現在を救え、ありのままを救え」と叫んだことから名付けられた。中には正造の木像と、鉱毒事件に奔走した人々が記された大位牌が祀られている。

◎庭田清四郎家
 1913年8月2日、佐野の津久居彦七家から谷中へ帰る途中、正造は雲竜寺を訪ねたが住職は不在、庭田家に回ったが源八・恒吉父子も留守のため、分家の庭田清四郎家に倒れ込んだ。そして、闘病34日目の9月4日、帰らぬ人となった。庭田家では正造が病臥した
部屋を当時のまま保存し、訪ねる人を快く迎えてくれる。それだけに、来訪者は必ず都合を確認されたい。